久しぶりに

ちょっと眠れないので、久しぶりに少し書こうかと思います。

 

近況としては、自分のやりたいことを見失い、人間の悪意と呪詛を観て落ち込み、少し気分を取り戻し、でも続ける気があまりしなくて、別の希望をかすかに見出し、少し取り組み始めたといったところです。

よく考えるとここ一年半ほど、つらいところをだましだましという過ごし方だったので、少しずつよくなっていけばいいなという感じですね...

このことについては詳しく書く気がしていないので、この辺にしておきます。

 

また、やりたいことがでてきたので、それなりに大事にしつつ、少しずつ言葉にして、あるいは blog に書いたりしていきたいと思います。

 

あと、いくつか買い物をしました。

電子機器類やはじめて (無料でできない) PCゲームを買ったのですが、ゲームの方は最近実績をすべて解除して一段落したところです。といっても、カンストとかはまだなのですが...一応はねってことです...

 

今日はこのあたりにしようと思います。

また、ひと月ごとを目安に投稿できればよいかなといったところです。

 

 

 

では、また。

 

 

 

 

 

やりたいこと

ここ数週間で、大事な作業を終えて、とりあえずはひと段落したところです。

また前の記事から一か月経ったらしいので、今日は雑に何か書こうと思います。

 

前の記事は数学の話でしたが、間違いに気づいたり修正するのに時間がかかったりで、不特定多数に公開するタイプの記事は (まだ見ている方が少ないとはいえ) 精神的にくるものがあるのだなあと感じました。遠い将来、そういう記事(?)を定期的に量産する仕事(しかも安定しない仕事)に就くかもしれないと思うと不安になってきますね。ただ、それなりに見てくださる方が増えたので、「そういうこと」なのだろうなあと思ったりもしました。

 

最近では、「やりたいこととは何だろうか」「なぜそれをしたいのか」「やりたいことと似ている○○はなぜやりたくないのか」「それをやって(狭い意味で)何の役に立つのか」ということをよく考えることになったのですが、考えれば考えるほど、説明しようと試みるほど、あまり他人に共感してもらえない(実際、何がいいの?と聞いてくる人もいました)ことのように思え、しかし一方で実際に自分がやりたいのだから、そしてそれに自分なりに理由があるのだからそれでいいのではないかという気持ちにもなり、しかし、それではいけないのでは、、、、、、。みたいな問答のようなことを繰り返して時間を浪費してしまいます。

別に悪いことではないし、逆に推奨すらされそうなことですが、そんなことよりやりたいことをやったり、やるための準備をするべきでは?! という焦りも(最近なぜか少なくなったのですが、年ですかね(笑)、それでもたまに)あったりと、人間をしているなあ、生活はボロボロでも精神の核はまだ人間的だなと感じますね(なんのはなしやねん)

 

人間にはいろいろいて然るべきなのだから、早く先のことをやっても、僕みたいに沼にはまっていても等しく扱われてほしいみたいな願望というか、そういうところが尚も悩みや停滞を生んでしまうので僕みたいな人間にはつらいものです。

 

 

なんだかただ駄弁ってるだけみたいでしたが、今日はこのくらいでお開きにしたいと思います。

 

 

 

最後に、業務連絡的なことを少し書かせてください。

今回、十何回目かの記事になるのですが、これまでに書いた記事を見返していて、酒が入っているからか文章力がないからか、どうも今の考えとは相容れない文章になってしまっているものが目につくようになってきたなと思います。もちろん、人の考えは時とともに(緩やかにかもしれませんが) 変わっていくものだと思っているのでやむを得ないことではありますが、さすがに当時の本意とも違うだろうと (自分で) 思える文章もありましたし、何かしら人を不快にさせそうとか、角が立つとかという類のことも、これから記事が増えることで出てくるやもしれません (もう書いてしまっているかもしれません)。そこで、将来的に、そういう記事は (部分的にでも) 削除したり編集したりすることもあると思っています。このようなことは、ある意味当たり前の作業ですが、一応この場で断っておこうと思います。

また、文章を書くことで適切に表現するのは、(少なくとも僕には) 難しいなと改めて思っています。そして、僕の記事で変な箇所があれば、適切に修正したり読み飛ばしたりして頂けると幸いです。

業務連絡は以上です。

 

 

 

では、また。

 

 

 

もう暑い。

お久しぶりです。GW が明けようとしていますが、もう暑くなってきてます。

そろそろ服を半袖にしてもいいのかもしれませんね。

 

今日も雑談っぽいことを書こうと思います。

 

今年の GW は元号が令和になって、どことなく年始の気分になっていて、昨日は大掃除をしていました。とてもきれいになったので、すがすがしい気持ちになってます。それで今日はお昼に筋肉痛とともに起きたのですが、どうも仕事というか勉強というか、そういうものをしたくない日でした。

 

あと「上皇」が復活(?)したらしいですが、上皇というと古文とか火の鳥とかでしか見ない単語というイメージだったので、どうもわくわくしてしまいます。

とても歴史的に珍しいことのようなので当然な感情かもしれないですが、そういう場面と同じときを生きているというのが感慨深い、と思える年になったのかなあとも考えると、なおいっそう感慨深いですね。

 

勉強などについては、前回あたりでうまくいきそうだと書いた(気がする)習慣も、もう休みのせいか(いいや違う)ぼろぼろに崩れ去って、怠惰な日々に戻ってしまったので悲しくなってます。この方が性に合っているという気もしますが、怠惰すぎる気がして罪悪感を感じていしまうんですよね。

土日も平日のように振舞える環境を手にしたいですが(他力本願?)、そうはいかないので難しいですね。よくこんなぼくが今の環境にいられるものだと不思議にさえ思えてきます。

 

 

今日はこの辺にしておきましょう。(今日は古文っぽい?)

 

 

ではまた。

 

桜、しかしまだ寒い

お久しぶりです。

 

家の近くでは桜が咲いていますが、まだ寒く、冬を感じさせますね。

 

さて、ここ数日の出来事といえば、新元号の発表ですが、とりあえず今日は触れずに近況を報告するなどして簡単に済ませようと思います。

 

近況といっても、前回の更新からだいぶたっていますし、簡単にするとすごく雑になるのですが(笑) 。

 

近況

ここ数週間の出来事については、いい感じなので触れないことにします。(触れるとなんだかいい感じなのが崩れる気がするので)

ざっくり年末から振り返ると、、とても思い出したくない暗黒の時代(といえばいいのでしょうか)でした。

原因ははっきりしていて、このブログを含め、身近な同世代の嫌いな人(たち?;以前記事にした気がしますが、あまり見ていいものでもないのでリンク等は貼りません;ならばこれを書かなければいいのでは() ) との決裂が決定的となり、将来の自分への不安も相まって、かなりよくない精神状態でした。それでも年始からなんとか決裂を果たし、1月に他のことで気を紛らわせながら過ごし、2月はその惰性で過ごした、といった感じです。

そんなこんなよくない暗黒の数か月は一応終焉を迎え(ほんと?) 、先ほど書いた通り、いい感じな日々を送っています。

 

 

 

どうやら 90 日くらい更新しないと広告が出るようなので、 90 日を目安に更新できればいいと思います。

 

ではまた。

 

ひさびさに

今日は久々に何か書こうと思います。

 

酒が少々入ってますので、つたない点もあろうかと思いますがご了承ください。あと、今日も(厳密には)数学の話ではないです。

 

今のような、大学学部生の卒業研究を控えた時期にまでなると、(少なくともぼくの所感では)周りの人それぞれが興味をもつ対象と自分のもつ対象とがかみ合わなくなり、何をしているか容易にはわからない(「わかる」の基準にもよりますが)ようになるようで、実際そういう人ばかりである種の孤独感を感じずにはいられなくなってくるわけです。

しかし、一方で周りの誰も興味をもたない(は言い過ぎでしょうが、少なくとも自分よりは詳しくない)状況というのは、ある種の優越感のような感情とともに自分の在り様をはっきりとしたものにしてくれるように思います[あまり適切な言葉とは思えないですが]。

 

いろいろと感情が移り変わって一週間がとても長いと思える日々を送っていても、結局一か月近く経つと早いとか短いだとか思えて、さらにその間にやってきた(証明したり、観察したり、ただ結果を眺めたりした)概念たちの少なさを思うに、どうも微妙な感じだなあなどと愚痴をこぼしてしまい、また暗くなり、いつも不愉快な(というより、標準的でない言動、過激に言えば非常識な言動、をするような)人が面白い話をしてつい笑ってしまってなんだか元気になってしまったりする。

といったような現状このごろです。

 

さて、そんな散文的な話よりももう少し話題のある話を少ししたいと思います。

 

最近思うに、ものの考え方、というものはある程度伝承できるのではないか。ということです。

 

これは数学に限った話ではないように思えますが、あまりまとまってない類の話なのでなんとも言葉にしてもいいものかとも思うくらいなので、(読まれる場合は)数学に限定した話だと思ってもらえると幸いです。

 

さて、ある問題を解く際に、高校生だとまず、

「この問題はやったことがあるだろうか」

ということを(問題を見てその見たそのままの感じから)まず思い浮かべると思います。

次にやったことがある問題で、その解答を覚えていれば、そのまま書いたり、あるいはそこまではっきり覚えていなくても「ああ大体こうだったよな」と筋道をなんとか思い出して(あるいは授業で練習していたら、なおのこと)、その手法をうまく使おうと考えて解こうとすると思います。

これは、大学の定期試験でも同じで、そもそも(定期)試験とは、やったことのある(とみなされている)ことができるようになっているかを確認するもの、で大体はあるはずなのでそれは当然と言えるでしょう。

 

しかし、大学で(でなくてもいいですが、特に教育的配慮、つまりは適切な問題やその解答がないことの多い)数学をする場合、演習問題となるのは本文の自分が非自明と思うのに省略されている箇所であったり、本文で扱いきれていない命題を(それが読者に適切かあまり配慮されないまま)ただ証明なしに書き連ねられただけの「演習問題」であることです。

つまりは、解答が与えられることは(ほかの本や論文に手を広げない限り)永久にないということも(現状では)普通にあります。

そのような時、やってきたこと、概念や事実(命題、定理)やその証明、をただ追って理解してあるいは覚えたとしてもだめで、こういうところに、高校生(時代のぼく)が大学の本を読んで(眺めることにすら)挫折しがちになるところがあるように思います。

では、これを解決するにはどうすればいいのか、ということですが、それは今でもよくわかりません(笑)。こうすればできる、と言えるようなことはまずなく、皆がよくやっていて、ぼくもやっていて、まあ使える方法は、

本を読む or 問題を解く → 説明する(発表する)

であろうと思えます。しかしこれだけ言われてもよくわからないし、何も主張していなように思えます。(もちろん、発表を踏まえてフィードバックするという工程やあるいはここでは書き忘れた重要な工程もあるやもしれません。)

 

ですが、(とにかくここでは)これは、「考え方」がわかっていれば実際やるのはこれだけ、ということです。

その肝心の「考え方」というのは、一見抽象的ですが、ある種の取り組む姿勢を指しています。これを説明します。

 

まず高校生(あるいはもっと正確には数学を「していない」ような人)を相手に説明するときに、抑えることとして、

・問題に真剣に取り組むこと

があります。これは単に真剣にやればいいという意味ではなく、問題に対して答案を提示するゲームと思わずに、少しおおげさですが、その問題を何の利害も関係なしに、純粋に、解きたい、解くにはどうするか、というのを考える、というものです。[あまりうまく説明できません。]

そのときには、自然と、その問題の背景やその問題を考える意味、問題の意味することを正確に(しかも場合によってはそのイメージするところまでも)理解した上で問題について考える(考えようとする)だろう、ということです。[自分で書いてて、100%実践できているということはない気がします。]

そして、これを踏まえた上で、

・何が示せれば十分なのかとか、こうあってほしい!、というようなことを考えたりしながら方針を練り、

・その上で流れ作業とか routine work とか言えるような状態にしてしまって、あとは流れ作業でただ手を動かす。(問題によってはこの部分だけのことも多分にあると思います。)

これを繰り返します。[もしかしたら、何か欠けているかもしれません。]

また、この流れのなかで、流れ作業と呼べるものがどれくらい豊富なのかは重要なことですが、今重要視しているのは流れ作業を使うことをはじめから念頭におかずに、ただ問題を解くためにどうするかを考えるという姿勢の話をしていることに注意します。

すると、問題を解かずとも、何かの証明を読む際も、何が流れ作業(「やればできる」こと)で、何が本質的か、そもそもどういう方針なのかを意識的に問うことは(セミナー時も発表者に問うことは)大事でかつ自然なことに思えてきますし、さらに発表をするときにも気をつければ、より見通しのよい発表に近づくのではと思います。[ぼくは最近そう思っています]。

 

こういう姿勢や「考え方」と呼べるものは、高校生には欠けがち(ぼくも高校2 年くらいまではそうでした)であるように思います。[もしかしたらそんなことはないのかもしれませんが。]

こういうことは、ある意味で人の根幹とみなされることも多いでしょうから、あまり表立って教えたり、(言い方を強くすると)強要したくない、という大人としての考えもあるでしょうし、そのことはよく考えて(教える側なら)教える方がいい、という意見もわかるのですが、数学の「解き方」の一つとして高校生のうちから(なんとなく中学生は早い気がするのは気のせいでしょうか)知っていればいいのになあと思ったりします。大学生で知らないという人もいるかもしれないですが、その時はなおいっそう、そういう人にこのことを教えるというか、大人であるその人の考え方にまで深入りするのはためらわれるからです。

しかし、周りの頭の回転が速くて、そういう思考についての考察というかあり方について考えたことのない(あるいは必要のない)人にとっては無意味どころか有害かもしれず、ただ教える、伝承すればよいというものでもない気もしてきます。[困っている人に相談されたら、ぼくはこうしているよ、という感じで話すことはあったりなかったりですが。]

 

 

結局数学の話だったような気がしますが、まあそういうことがあってもいいでしょう。(少し呑んでるんで(笑))

 

では、また。(なんだか校長先生のお話みたいになっちまったよお)

 

嫌いな人、苦手な人

一か月ぶりで投稿します。お久しぶりです。(なお、2018.10.16.現在で誰も読んでいない模様・・・)

 

いきなりですが、苦手な人や嫌いな人というのはどのような集団に属していてもいるもので、私は今日、そういう人と一緒にセミナーをしてきました。

そこで(と言ってはなんですが、) その人のどういうところが嫌いか(苦手か)というかを今日は説明してみたいと思います。

 

そもそもセミナーという場では、発表者の間違いや疑問点に対して指摘をするのはとても(どんどんやるべきという意味で)重要であるとされており、それは私も承知しています。また、何も考えずに疑問点を思いついたそばから口に出されると発表は滞るし、しかも「考えてみたら何でもなかった」とわかる場合やその口にした人以外にはその疑問は解決するまでもないこと(つまりは、口にした人が他の人々の共通の知識を持ち合わせていない)だったりしますが、それでも疑問点や知識不足を解消するのがセミナーであるので、こうして滞ること自体、推奨されるべきことです(と、私は認識しています)。

この滞るということについて、どれほどストレスに感じるかは人によって様々ですし、ある程度の慣れがあれば、十分耐えられる(苦手に思わないですむ)ように思いますし、実際私の場合もそうです。

では、私が苦手なのは何かというと、それは「どうでもいい」コメントを乱発して議論を止めたり、あるいは発表中に聞き手が(関連のあることでもとりあえずとばかりに)好きなタイミングで話し始めること(など)です。

前者の「どうでもいい」というのは、単純な独り言であることが多いですが、要は発表やその周辺とは関係ないような雑談に近い内容です。私はコメントは(重要かもしれないので)逃さず聞きたいので、コメントは発せられれば何でも注意して聞いてしまいます。するとただの独り言で聞き損になるばかりか、場合によっては発表への集中が途切れるので議論に置いて行かれることにもなりかねず、そういう意味でストレスが溜まってしまいます。後者については、要は空気が読めてない人ということになるので、もはや性格とか特性とか呼ばれるような類の話なので、しょうがないと思うことにしてますが、ストレスは溜まっていきます。

 

まあ、こういう人はどこにでもいるし、私ももう慣れたようなものなのですが、それでもたまに(今日みたいに) stressful になることもあるのです。今日はちょうどブログがあったことを思い出したので書いてみました。伝わる文章になっているかは微妙な気がしますが、今日はこの辺にしたいと思います。(数学の話はいつ書くことになるのやら...)

 

では、また。

 

 

 

 

 

とりあえず何か書きます

どうもお久しぶりです(?)、こんばんは。(いまだに、このブログを見ている人が 0 人なのにこんな挨拶に意味はあるのだろうかw)

 

今日は特に何を書こうというわけでもなく、とりあえず、記事を書くをクリックしてみたくなって、クリックしたので何かを書こうかと思います。今まで通りポエム的文章なので、それが嫌な方はここまでということで、ではまた。

 

研究と給料 

 

自分はまだ修行中の身なので給料をもらうということはないのです。それについては何も異論はないですし当然とも思っています。しかし、(少し local な言い方ですが) M とか D とかの人々、つまり院進を果たした人々が結果を出していないからと給料を支払われない(ように拘束してしまう)現状はどうなのだろうか、と疑問に思うことが多いです。個人的には給料が出てほしいなあと思うので、それについて少し(できるだけ正当化できるように)考えてみます。

まず、いわゆる給料をもらっている研究員というのは、企業か大学かに属していると思います(というよりそれ以外の例はここでは考えないことにします)。企業の場合というのはよくわかりませんので、大学の場合のみ考えます。院進について考えるのでそれで十分と思うことにします(実際には、大学というのは企業と比べてどういう立ち位置でいるべきかという問題は、とても重要でかつ大学ごとに異なる議論を必要とするような簡単でない話になるはずなので、ここでは扱わないということです)。

さて、大学において仕事をして給料をもらっている人は大勢いると思いますが、院進と比べてこうあってほしい、という見方をするために同じような仕事を探しましょう。まあ簡単には、院進したら研究をするはずです(これも所属する大学やさらには組織や学年によって異なるわけですが、ここでは大雑把にとらえます)から、そうすると大学教員や大学組織に所属する研究員(以降でそれぞれ、教員・研究員と略します)がいます。

教員には教育活動に対して給料が出ていて、研究員には研究成果を出すことによって給料が出ていると思っています。そして、教育活動としてTA職というものもあり、これは実際に周りの先輩の(主に)Dの方が給料をもらっています。一方で、院進した M や D の人々は「学生」ではあっても研究成果として修士論文や学位論文を作成するわけなので、これに対しても(仕事をしているのだから)相応に給料が出て然るべきではと思います。

ただ、研究成果を出してもそれだけではお金を稼げないこともある、というのは資本主義(?)としては正しいというのも当然であり、そうなると、教育活動として(Mは無理でも)Dの人を講師扱いして講義を持たせたりなどして給料を渡す口実とするのが現実的なのかもしれないなあなどとも思ってしまいますな。

しかし、少なくとも、院進して研究している M や D の人に対して「学生」という扱いをして雇用せず、逆に学費を払わせているというのはさすがにどうかと思うのです。企業が、学部卒の人に 5 年以上「研修しているんだ」と言いつつ仕事をさせて、給料を支払わないどころか経費を負担をさせているようなものだと思うと、それはとんだブラック企業ではと感じられると思います。その一方で、その例でいうなら、会社の利益にならない仕事をしている人間に 会 社 が給料を出さないというのは至極当然かもしれないわけで、会社と研究機関(とくに大学)が異なる点と言うべきで、例えとして良くないのかもしれません。

ここまで書いておいてなんだか何も主張していないようでなんだか中途半端ですが、今日は飽きてきたのでこのあたりにしたいと思います。まあまだ修行中の身としては、親からの学費などの費用を負担してくれることを給料だと思って、給料分の仕事をしたいところですな。。

 

次がいつになるかわかりませんが、また。(だから見ている人がいないんだよなあ...)