ひさびさに

今日は久々に何か書こうと思います。

 

酒が少々入ってますので、つたない点もあろうかと思いますがご了承ください。あと、今日も(厳密には)数学の話ではないです。

 

今のような、大学学部生の卒業研究を控えた時期にまでなると、(少なくともぼくの所感では)周りの人それぞれが興味をもつ対象と自分のもつ対象とがかみ合わなくなり、何をしているか容易にはわからない(「わかる」の基準にもよりますが)ようになるようで、実際そういう人ばかりである種の孤独感を感じずにはいられなくなってくるわけです。

しかし、一方で周りの誰も興味をもたない(は言い過ぎでしょうが、少なくとも自分よりは詳しくない)状況というのは、ある種の優越感のような感情とともに自分の在り様をはっきりとしたものにしてくれるように思います[あまり適切な言葉とは思えないですが]。

 

いろいろと感情が移り変わって一週間がとても長いと思える日々を送っていても、結局一か月近く経つと早いとか短いだとか思えて、さらにその間にやってきた(証明したり、観察したり、ただ結果を眺めたりした)概念たちの少なさを思うに、どうも微妙な感じだなあなどと愚痴をこぼしてしまい、また暗くなり、いつも不愉快な(というより、標準的でない言動、過激に言えば非常識な言動、をするような)人が面白い話をしてつい笑ってしまってなんだか元気になってしまったりする。

といったような現状このごろです。

 

さて、そんな散文的な話よりももう少し話題のある話を少ししたいと思います。

 

最近思うに、ものの考え方、というものはある程度伝承できるのではないか。ということです。

 

これは数学に限った話ではないように思えますが、あまりまとまってない類の話なのでなんとも言葉にしてもいいものかとも思うくらいなので、(読まれる場合は)数学に限定した話だと思ってもらえると幸いです。

 

さて、ある問題を解く際に、高校生だとまず、

「この問題はやったことがあるだろうか」

ということを(問題を見てその見たそのままの感じから)まず思い浮かべると思います。

次にやったことがある問題で、その解答を覚えていれば、そのまま書いたり、あるいはそこまではっきり覚えていなくても「ああ大体こうだったよな」と筋道をなんとか思い出して(あるいは授業で練習していたら、なおのこと)、その手法をうまく使おうと考えて解こうとすると思います。

これは、大学の定期試験でも同じで、そもそも(定期)試験とは、やったことのある(とみなされている)ことができるようになっているかを確認するもの、で大体はあるはずなのでそれは当然と言えるでしょう。

 

しかし、大学で(でなくてもいいですが、特に教育的配慮、つまりは適切な問題やその解答がないことの多い)数学をする場合、演習問題となるのは本文の自分が非自明と思うのに省略されている箇所であったり、本文で扱いきれていない命題を(それが読者に適切かあまり配慮されないまま)ただ証明なしに書き連ねられただけの「演習問題」であることです。

つまりは、解答が与えられることは(ほかの本や論文に手を広げない限り)永久にないということも(現状では)普通にあります。

そのような時、やってきたこと、概念や事実(命題、定理)やその証明、をただ追って理解してあるいは覚えたとしてもだめで、こういうところに、高校生(時代のぼく)が大学の本を読んで(眺めることにすら)挫折しがちになるところがあるように思います。

では、これを解決するにはどうすればいいのか、ということですが、それは今でもよくわかりません(笑)。こうすればできる、と言えるようなことはまずなく、皆がよくやっていて、ぼくもやっていて、まあ使える方法は、

本を読む or 問題を解く → 説明する(発表する)

であろうと思えます。しかしこれだけ言われてもよくわからないし、何も主張していなように思えます。(もちろん、発表を踏まえてフィードバックするという工程やあるいはここでは書き忘れた重要な工程もあるやもしれません。)

 

ですが、(とにかくここでは)これは、「考え方」がわかっていれば実際やるのはこれだけ、ということです。

その肝心の「考え方」というのは、一見抽象的ですが、ある種の取り組む姿勢を指しています。これを説明します。

 

まず高校生(あるいはもっと正確には数学を「していない」ような人)を相手に説明するときに、抑えることとして、

・問題に真剣に取り組むこと

があります。これは単に真剣にやればいいという意味ではなく、問題に対して答案を提示するゲームと思わずに、少しおおげさですが、その問題を何の利害も関係なしに、純粋に、解きたい、解くにはどうするか、というのを考える、というものです。[あまりうまく説明できません。]

そのときには、自然と、その問題の背景やその問題を考える意味、問題の意味することを正確に(しかも場合によってはそのイメージするところまでも)理解した上で問題について考える(考えようとする)だろう、ということです。[自分で書いてて、100%実践できているということはない気がします。]

そして、これを踏まえた上で、

・何が示せれば十分なのかとか、こうあってほしい!、というようなことを考えたりしながら方針を練り、

・その上で流れ作業とか routine work とか言えるような状態にしてしまって、あとは流れ作業でただ手を動かす。(問題によってはこの部分だけのことも多分にあると思います。)

これを繰り返します。[もしかしたら、何か欠けているかもしれません。]

また、この流れのなかで、流れ作業と呼べるものがどれくらい豊富なのかは重要なことですが、今重要視しているのは流れ作業を使うことをはじめから念頭におかずに、ただ問題を解くためにどうするかを考えるという姿勢の話をしていることに注意します。

すると、問題を解かずとも、何かの証明を読む際も、何が流れ作業(「やればできる」こと)で、何が本質的か、そもそもどういう方針なのかを意識的に問うことは(セミナー時も発表者に問うことは)大事でかつ自然なことに思えてきますし、さらに発表をするときにも気をつければ、より見通しのよい発表に近づくのではと思います。[ぼくは最近そう思っています]。

 

こういう姿勢や「考え方」と呼べるものは、高校生には欠けがち(ぼくも高校2 年くらいまではそうでした)であるように思います。[もしかしたらそんなことはないのかもしれませんが。]

こういうことは、ある意味で人の根幹とみなされることも多いでしょうから、あまり表立って教えたり、(言い方を強くすると)強要したくない、という大人としての考えもあるでしょうし、そのことはよく考えて(教える側なら)教える方がいい、という意見もわかるのですが、数学の「解き方」の一つとして高校生のうちから(なんとなく中学生は早い気がするのは気のせいでしょうか)知っていればいいのになあと思ったりします。大学生で知らないという人もいるかもしれないですが、その時はなおいっそう、そういう人にこのことを教えるというか、大人であるその人の考え方にまで深入りするのはためらわれるからです。

しかし、周りの頭の回転が速くて、そういう思考についての考察というかあり方について考えたことのない(あるいは必要のない)人にとっては無意味どころか有害かもしれず、ただ教える、伝承すればよいというものでもない気もしてきます。[困っている人に相談されたら、ぼくはこうしているよ、という感じで話すことはあったりなかったりですが。]

 

 

結局数学の話だったような気がしますが、まあそういうことがあってもいいでしょう。(少し呑んでるんで(笑))

 

では、また。(なんだか校長先生のお話みたいになっちまったよお)